昭和45年12月19日 朝の御理解
御理解 第85節
「女の身の上、月役、妊娠、つわりに、腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽く、隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生れた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日のとおり。」
この八十五節を先日から、女の身の上の事女の心情の事として頂かずに、八十六節の初めにありますように、女は世界の田地であるという。いわゆるお道の信心をさせて頂く者は、いわば世界の田地である。だからそういう意味で頂く。女は世界の田地と仰せられる。金光様の御信心を頂く者が、いわば世界の田地としての自覚をもって、ここの八十五節を頂かせて頂きますと、女の心情身の上という事だけではなくて、金光様のご信心を頂く者が、すべて産前身軽く隣知らずの安産。
産後よかり物、団子汁をせずという様に、綺麗な美しいいわば玉のような子供を産みなしたとある。玉のような赤ちゃんが生まれたというようにですね。しかも産前産後の大した苦痛もなくおかげを頂くというようにですね。しかも産前産後の大した苦痛もなく、おかげを頂くと言うようにね。例えば、おかげを産み成すということ。そのおかげでも、スッキリしたおかげ。もう、とにかく、やっとかっとと言ったようなおかげではなく。おかげやら、おかげじゃないやら、分からんようなおかげではなく。
誰が聞いても、誰が見ても、なるほど金光様のご信心によって受けられたおかげだなと、分かるようなおかげ。そういうおかげを産みなして行く事の為にね、私共が、この八十五節を、そのような風に頂いて行かねばならん。また、そういう風に頂ける御理解だと思うんです。まあ、いわば、それこそ、隣知らずの安産と。いつ、おかげを受けられたか分からないようにして、おかげを受けて行こうと。昨夜の月次祭に、聞いて頂きましたように、大きなおかげを受けようと。大きなおかげを頂こうと、こう言う。
私は今朝御神前で、先日あの日田のいわゆる大分支部の共励会に、本年最後の共励会で、是非私にという事でしたから、他に用件もございましてから参りました。それで後からのお話が済んでお茶に、お茶受けにそれこそこんなに大きないなり寿司が出来ておった。誰かがこれはジャンボいなりだと言うて。まぁ普通の何倍でしょうかね。普通おすし屋さんでいなり寿司と言や、こんな小さい一口で食べられるようなのが、もうとにかく一つ食べればどへりするような大きな寿司なんです。
大きな皿に一つついであってもおかしくないようなのが、だから出来ておりました。今朝そのジャンボいなりという事を頂くんですね。私は中に一杯ご飯が詰めてあるとですから、これはままになるという事だとこう。いなりという事はこれは、この霊的なというかね。いわば、不思議なおかげという意味なんです。その、不思議なおかげ。しかも、大きな、その、いわゆる、ジャンボいなりである。
言うならこの大型時代というのはね、おかげも一つ大型になって行かにゃならん。そういう大型のおかげを頂こうと。自分で決めて小さいこれしこ頂きゃええとか、これだけどうぞ願うと言った様なものではなくてね。その大きなおかげを頂かせて貰おう。そこで私は、その大きなおかげを頂かせて頂く事のためにですね。やはりそこには一つの原理というものがある。おかげの原理というものが。
どんなに隣知らずの安産のおかげを頂きたい、安産のおかげを頂きたい。ただ空想しておるだけで、子供が生まれるはずはありませんよね。そこに、男女の合体、いわゆる、夫婦生活というものがあって。しかもさあそれだから、すぐ明日生まれるという事じゃありませんよね。言うなら十月十日という間、母体の中にあって生まれるというのが、私はおかげの原理というものはそうだと思うです。
例えば合楽のこのお広前が御造営になった時に、ある人が、大坪さん、腑が良かったですね、貴方はこげな立派なち、言われたが。腑がよかぐらいな事で、当たっておかげを受けるといったようなものではなくてね。こういうおかげを頂かせて頂く事のためには、もう一分一厘神様の間違いのない働きを受けさせて頂けれるだけの、いわゆる十月十日というのがあっとるのである。
だから、当然生まれるべくして生まれたのである。一人で生まれたのではないのである。生まれるべくして生まれたのです。例えば、その証拠を言うならばです。私の教師問題。または、この教会の認可問題。十何年間、願いに願い、してまいりました事が、どうしてもです、とにかく、何と申しますか。まあ、言うならば、気が熟してなかったと言うか。まだ、生まれ月に当たってなかったと言うか。いわゆる、十月十日というものを待たせて下さったという感じで、子が生まれた。
私が、教師の認可を受ける。教会としての設立の認可を受ける。私のが教師としてのお許しを頂いて、もうそれとこれとが一つになって。やはり合楽の教会長として、私はおかげを下さろうとする神様の働きが、一分一厘間違いのない働きの中に、押し進められて来ておった。そして生まれるべくして生まれた。出けるべくして出けた。そこでです私共がここに言うならば産前身軽く、隣知らずの安産のおかげと。
しかもよたれ物のない。綺麗な玉のような赤ちゃんが生まれるようにです。玉のようないわばおかげを受けて行くという事のために、そういうおかげの頂けれる、私は原理というものは、どういう事かと。大きなおかげを受けたいそれにはね、私は大きいと言や、天地ほど大きなものはないと思う。正確と言や日月ほど正確なものはないと思う。所謂、天地日月の心になること肝要なりと仰せられる。天地陰陽と言うても良いでしょうね。今日の御理解から言うと陰陽と。男と女という風に頂いてもいいでしょう。
それがいわば天地の心である。そこで私共がね、その天地の心を心としてという事になる。同時にです正確無比であるところの、日月になること肝要です。だから私共が、長年頂いて来た、その本当に天地の心を心としてと。天真地心と書くですね。または天然地念とかという言葉を頂きますですね。天然地念。天然というのはいわゆる自然、天然の美というですあの天然。地念というのは地に念ずるという。
地にひれ伏すというほどしのこと。自然に例えば起きて来た事をです。私共が地にひれ伏す思いで、それを受けて受けて受け抜いて行こうと言うのである。そういういわば信心修行。それを身につけて行くという、私は天地の心が分からなければ、それが出来ないと思う。そして私共がおかげを受けておかげの原理というものがです。そういう天地日月天地の心を心として、日月のような正確な信心がそこに求められるわけです。
段々稽古をさせて頂いてね、言わば天地の心を心としてと。天真地心。天の真地の心と言う様な事に精進させて頂くという事だけではなくてです。ここにどうしても所謂実意な信心。丁寧な実意丁寧神信心である。所謂日月の様な心である。是だけはというきちっとした信心である。私は大きなおかげを受けるという事の信心。是だけの事がですね、是はもうおかげの一つの大原理なのですから。もう絶対そうなのですから。
天地日月の心になる事に、本気で精進する。天地の心になる天地の心を心としての信心を、いよいよ身につけて行く。もう他に他にはないです金光様のご信心は。しかもそれをです正確な信心。例えば修行一つもおび正して頂いても、その修行一つがです本当に修行行のようにと言うか、本当に正確な修行。気分でする信心じゃなくてどこまでも信心でする信心でなからにゃ駄目だ。
そういうね、例えば信心をお互い積み上げて来て、例えばそれぞれに五年、十年、二十年と、いわば積み上げて来た訳なのですけれども。ここに一つ振り返って見てですたい。その八十四節の最後のところにありますように、道に草を生やすような事をすなとこう仰る。例えば二十年間、信心して来たがです、果してほんなら天地の心を心としての信心の稽古をさせて頂いた。そこにもまだ勿論人間の心ですから、完璧と言う様な事は出けんに致しましてもです。まあ言うなら四だ五だであったとしてたい。
また日月の心と言った様な事とはほど遠い、ただ自分の気分のよか時だけは、一生懸命になったばってん。また、願わにゃん時だけは、一生懸命なったけれども。途中で信心がおろそかになったり。いわゆる、日月の心とは反対の正確ではない信心であった。そこのへんに、草がいっぱい生えとりゃせんかという事である。二十年間言うならば合楽で信心の稽古をさせて頂いて、言うなら辿りに辿らせて頂いて来た信心。
それを振り返って見て、道に草を生やすような事をしておる。そのいわば過去の信心を思うて見てです。おかげを受けて来た事は、もちろんお礼を申し上げさせてもらうと同時にです。草を生やすような結果になっておるところの、言うならば自分が辿って来た、一遍道を振り返って見てお粗末であったところを、ご無礼であったところを正させて頂く、改めさせて頂くということ。
そして例えば今年最後の信心であるところの、お礼のための精進をさせてもらう。と同時に過去ああいう信心ではいけなかったという事を、一つ強く反省させて頂いて。いよいよ来年は一つ大きなおかげを頂こうという事になる。それを言葉を変えると、どういう事になるかと言うとその大きなおかげとは、天地ほど大きなものはない。大きなおかげというその為には、一つ天地の心を心としてという信心を、もう一遍いわば草を生やさないような生き方でです。
天地の心を心としてという信心をもう一遍、すきっとした信心に受け止めて行きたい。同時にです、四だ五だになって来ておった、日月の心になること肝要と仰る日月の心。日月ほど正確なものはない、無比なものであるがその日月の心を心として、私共の信心の上に、この事だけはと、どこもという事はなくても。例えば朝参りなら朝参りをさせて頂くと。いろんな修行をさせて頂くと。
それはまあそれぞれの信心によってよかろう。これだけは欠かさなかった。これだけはきちっとやって来た。またやって行こうと言う、私は、意欲をね、そこに、修行の上に現して行かなければいけないと思う。私はね例えば、皆さんのおかげを見ておるとね、ここにはなるほどおかげは産みなされて来とるけれどもね、非常にその難産の感じがする、皆さんのおかげは。しかもここにはよかり物、団子汁をせずと仰るが、そのよたれ物がある。おかげが綺麗でないスキッとしてない、玉のような赤ちゃんじゃない。
汚れこけてござるといったような感じ。私は合楽で頂いとるおかげ。まあ合楽中心にして頂いておるおかげですね。これはいつまあ実にすきっとしたおかげだと思うですね。合楽で私を中心にして頂いておるおかげは。昨日も私、若先生と御祈念前に話させて頂いた事ですけれども。どんなに考えてもね、合楽のおかげというのは、もう、本当に、ちょうど芝居の筋のごと。
例えば、映画なんかでも、ハッピーエンドに終わるといったような映画なんかは、まあ、低級な映画のように思うですね、みなさんまた実際はそうです。それこそ造ったんです。はあ、難儀苦労をした。けれども最後には、見事に結ばれたと言った様な、まあ結末になる映画を、ハッピーエンドに終わるという訳です。だから良い映画実際はそげんな事のあるはずはないのだから、実際に基づいてです。
例えば素晴らしいラストシーン等というのは、そういうその、ハッピーエンドじゃないのである。だからそういう映画が例えば、映画でも劇でも同じでしょうが、良い映画とする訳ですね。ところが合楽の場合はですね、本当に最後がもう絶対ハッピーエンドに終わっとるち言うこと。おかげでもねあれも立ちゃ、これも立つといったようなおかげになっとるち言う事です。
例えば三角の関係があるなら、四角の関係があるなら、その四角のどれもが道がちゃんとついておるち言う事です。例えばほんならそれは、若先生とほんなら今度の幹三郎の事でも、そうじゃんねぇって。はあ本当にそれぞれがおかげを受けたが。例えば、そん時に立ち会われた三人の先生方の上にまで、ああいうご褒美と思われるほどしのおかげを受けてあるもんね。教師の先生は幹三郎のあの事の事実を、お土産のようにして九大の方へ栄転されるということ教授として。
それから副教授であった方が、今度は九大の教授として大変難しい中を、おかげを頂いて今度教授になられたということ。主治医の清という先生がその、また後釜にその副教授としておかげを受けられるというほどしの、おかげがどげん考えたっちゃ、合楽の場合、もう、いわゆる真実性を欠ぐほどなんだという事。あまりにもハッピーエンドで終わっておるいつの場合でも。
だから、はぁ実際それを見たり聞いたりしておる者は、もう本当に素晴らしいと思うけれども、他所の者が聞きよったっちゃ、見よったっちゃですね、それこそ本当ではない、嘘のような感じです。いわゆるハッピーエンドに終わる映画がですね、まあ面白うはあるばってん、その残るもんがなかとかね。ああいう映画は低級なとかと言うようにですね、思われるほどしに、いわば素晴らしいおかげなのだからね、合楽の場合はと言うて、まあ若先生と話した事です。まあ他に色々な例を引いてですね。
自分方だけが受けりゃええ。自分の事だけがおかげ頂きゃええじゃなくてから。はあ神様のなるほどああいう、何でもあれも立ちこれも立ち。みんなが立ち行く皆がおかげであったと思われるようなおかげになって行く。真実性を欠くほどである。いわゆる作り話を映画にすればです、ほとんどがハッピーエンドに終わるような映画ばっかりである。そういう映画が、あんまりまぁ低級な映画と言うようにです。
合楽のおかげを見ておると低級なおかげのごたる。ところが実際はそういうおかげが受けられる道なんだ、金光教の信心というのは。そういうおかげの受けられる、おかげの原理というものを踏んまえて、合楽の場合は、玉のようなおかげが生まれておる訳なのである。だから、それを皆さんは、見習うてお出でられ、それを皆さんが修行によって体得されて行かなければならんのだ。
そして自分の身の上にも、自分の家の上にも玉のような、隣知らずの安産のおかげ。本当にいつあそこはああいう立派なものが出けるようなものが、いつ出けておったじゃろうかと思われるようなおかげをです、頂かなければいけんのです。おかげを頂いた後に心配がない。生まれた子に五香いらず。母の乳をすぐ飲ませる。頭痛血の道虫気なし。不浄毒断ちなし。平日の通り。と言うようなですおかげ。
それがそのおかげがスキッとしておるから、そういうおかげが受けられるのです。玉のような赤ちゃんが。だから、なのです。生まれた赤ちゃんが、どこがいけん、痛いとか、ここが故障があるとか。さあ、生まれた後まで、また病院通いしなければならないといったようなものではない。そういうおかげの頂けれる道にあるんだ。だからそういう道をです、私共は二十年間、いわば辿らせて頂いたのだけれど。
振り返って見たところが、あそこにも草が生えとった、ここにも雑草が生えておるというような、私は振り返って見てです、そこんところを本当に詫びて、詫び抜かせて頂いてです。それでも、このようなおかげを受けて来た事を、お礼を申させて頂いてです。お詫びのためにも、または、お礼のためにも精進させて頂いて、これからの信心です。来年はどうでも、大きなおかげを頂かなければならん。
その大きなおかげを頂く事の為に、いよいよ天地ほどしの心を、自分の心の中に頂こう。いわゆる天真地心。または天然地念。そういうような私は信心修行信心態度というものをです、日常生活の上に現して。しかもそれが日月のように狂いのない、間違いのない。いわゆる信心の私は節度と言った様な意味の事を申しますが。それこそきちっとした信心と言う様なものを、自分の身辺からです一つ本気でキチッとしたものにして行かなければいけません。信心がろくそなか。
そのろくそなかとこをいっちょ改めさせて頂いて、きちっとした信心。でないときちっとして、いわばその月満ちてですね、生まれて来るという筈のが、早出しをしなければならなかったりまたは遅れたり、難産になったりと言う様な事になってはつまらんですから。これだけはここだけはと言った様な、信心の正確な信心を去年五が出けたならば、今年は十と言う様にです。の信心正確に出ける信心の分野を、こう広げて行かなければいけん、すべての上に。
もう皆さん一つ手近なところから正確なところを、覚えて行って下さい。皆さんが私はここのお取次ぎをさせてもらう時の、ここに、お幣木がこうあるともう私が一分こう違うとったっちゃ、ちょっと、すぐやって直してしまう。正確なという事はそういう事だと、私は思うんです。もう私はこげんなっとんならもうお取次ぎはしきらんです、どげん思うたって。ほんでもう慌てまわってこうやってやる。
もう一時が万事です。私はきちっとした信心正確な信心。例えば御神飯をお供えさせて頂く。私が四時の御祈念に出る前には、必ず御神飯がお供えしてある。四時には一秒間でも間違えん、狂わんように御神前に出る。それがどうでしょうか。まあ四時五分の時もある、四時十分の時もある。たった五分か十分かそんたったそれだけがです、昨日から頂いておるように、そこから狂い出して来るのですよ。
たったこのくらいだから良かろうと思う心がですいけんのです信心には。それこそまぁ年に一回かまぁあるかないかだったですかね今年も。御神飯が遅れた。私が御祈念に出た時にゃまだ御神飯がでけてなかった。 もうそれはもう大変な事として、御神飯の御用を頂いておる人は、もう、それこそ、血の気の引くような思いで、その事をお詫びしておる。私もまた、よかよか、もう、御祈念の済んでからお供えでんよか。
けれどもそんなら、神様に断食させるような事じゃから、私も一日断食しようというくらいなね、例えばお詫びをして行くて。そういう事が積もり積もって雑草になっとるのだから。道に草を生やしておるのです。だからこのよかよかと言った様なね、生き方ではなくて、そこんにきは、一つ正確にして行こうじゃないか。日月の心でここんところを、人間の事ですから、どこにお粗末御無礼があるやら分からん所はです。
今、言う詫びて詫びの印にです。例えばほんなら御神飯が、十分か十五分か遅れた。もう遅れた御神飯を神様が召し上がらんとしてです。ほんなら神様貴方だけには断食はさせません。私も今日は一日、お詫びの印に断食させて貰いますという位なね。私は正確な信心というのが、私どもの信心はそう言う様な事だと思う。出来る事もある出来ん事もある。出来ん所をです、本当に許されたと思うほどしの、お詫びの信心をさせて頂いてです。是は、皆さんが工夫なさらなければいけません。
日月の心のという、正確な信心という事は、皆さんがね。お月次祭ならお月次祭にお参りをさせて頂く。もう、太鼓の音がしよる。さあ、思うてもです、とにかくもう、お月次祭に時間どん切らす事があっちゃならんと思う人はです、もう走って来よるです、一生懸命。そして、お祓いだけは受けにゃと思うて、ガ―ッと開けて入ってくるでしょう。私は、ああいう心が大事だと思う。もう始まっとるばいのと言うちから、悠長にやっぱ入って来る人もある。
だから金光様の御信心はね、そういう所を改めて行かにゃいかんです。そん時走ってくる心なんですよ問題は。それを私は今日は日月の心と。天地ほど大きいものはない。大きなおかげを頂こうと思うなら、天地ほどの、いわゆる、天地の心を心とするほどしの信心を、一つ、どうでもこうでも身につけて行く。しかも、それだけでもいけん。きちっとしたおかげにならせて頂く事のためにです、日月の心になる事肝要である。
そういうおかげを産みなして行く。そういう意味においてです、私はお道の信心者は、世界の田地であるとこう思うのです。私共がそこからです限りなく生みなされて行くところの大きなおかげ。玉のようなおかげ。なるほど私どもが世界の田地であるなと思わせて頂きます。不浄毒断ちな、平日の通り。例えばどのような事に直面致しましてもです。例えば幹三郎が、小野先生がもう病院ではこう言うておりますよと。
本当に親としてこげな、その酷な事があろうか。見てみなさいこのレントゲンを。もうこれは九分九厘助からないんだと。私、それを言われた時、私の心の中、いつも本当です、平日のとおりでしたよ。平日の通りというのはもうちっとですね、何か張りが出て来たです。はあいよいよ私の出る幕だと。何かもう本当にそれこそ喜びいっぱいち言うでしょうかね。まあそん時に居合わせた十何人かの人達が、一緒に会食しましたから、あん時の様子を見とられますからその通りです、それを聞いた時。
ほんなら久富繁雄さんは、自分の子でもない、幹三郎の事ですけれども、それを聞いてから、体が震うたち言わっしゃる。震いが一時止まらじゃったて、その事を聞いてから、小野先生から。と言う様な時でもです、平日の通りでおれれるほどしのおかげなんです。今日私が御神前で頂く、いわゆるジャンボいなりである。例えばねそれはもう神様の目からご覧になりゃそこも疎か、ここもご無礼であろうけれどもです。
そういう私共が生き方をですね、本気で学ばさせてもらおう、学び取らせて頂こう。そして、おかげの原理は、そこにあるんだと、一つ思い込ませて頂くという事なんだ。金光様の御信心は。ただ、お取次ぎを頂いて、お願いをしておかげを頂いたというだけではなくて、お取次ぎを頂いて、そういう信心を頂くのだ。という事をね、皆さんが思い込ませて頂いたらです。
またそうである事を信じさせて貰い、またああここん所は御無礼であったと。今日例えば遅うなしたという時にはです。そのお詫びの印の信心と言った様な、いわば信心をさせて頂いて行く所からです。言わばそこにはねそういう心を神様が汲んで下さる。言うならば蓮根食うて下さる。願いを立てておるその願いを受けて下さる。それを私はいなりと言うかね、不思議なおかげになって来ると言う事。所謂不思議な働きをハッキリとここに見せて頂きながら、ままになって行くという事なんだ。
しかも言わば今年私共がね、お礼の真を捧げる。お礼の為の精進をさせて頂いてです来年こそはジャンボいなり的なですな、一つおかげを頂こう。それこそ不思議な不思議な、と例えば思わなければおられない程しのおかげの頂けれる。神様のそういう働きを受けさせて頂けれる信心を頂こう。それでもう一遍私共は、天地日月の心という信心を、もう一遍私共の信心の上に頂き直して大きなおかげを頂こうと、言わば皆さんがそういう言うならば、掛け声を諸共にしてです。
合楽全体が大きなおかげを目指して進ませて頂こう。そういう例えばおかげを頂かせてもらう、過去の事のお詫、過去の事のお礼。それを例えば明日の報徳祭に、そういう心をいよいよ高めて、今年のいわば締めくくり的な、一つおかげを頂かせてもらおう。そして心の中に準備をさせて頂こう。いよいよ天地日月の心を、もう一遍、改めて、頂きなおして、大きな願いが願えれる信心になろうと、心を固く決めて掛からせて頂こうと、こう思うのです。
どうぞ。